お客と利益の作り方ダイアリー -美しいビジネス-

販売力を上げてから集客力をあげること。これ鉄板の方程式。順番間違うと危険。

願望じゃなく必要を埋めろって。

仕事は”必要な仕事”と”願望の仕事”の2つがある。
必要な仕事には「今必要な仕事」と「今後必要な仕事」がある

 

あーなりたい。あんなことをしたい。会社をこうしたい。
多くの場合は願望。願望を叶えるのは男のロマン。
しかし「必要なこと」を出来ない人に願望は叶える事は出来ないのかもしれない。

今必要な仕事。これは誰でもやるし片付けないとダメ。
信用を失うから。

一番大切なのは「今後必要な仕事」をやること。
逆説的だがその為には「今後必要な仕事」を理解すること。
「言われたからやる」は作業。本当の意味での仕事ではないんだよ。

努力の奴隷

天才とは1%のひらめきと99%の努力 

 

エジソンの名言。好きな名言。
でも正しくは・・・「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」

努力しなさい!努力すれば成功できる!
的な台詞が自己啓発本なんか多いけど、エジソンが言いたかったのは

「1%のヒラメキが無ければ、99%の努力もムダである」ということ。
言い換えれば「ヒラメキがあれば99%の努力をしなくてもいいんだよ」ってこと。

そもそも努力を自分で「努力している」と認識しているうちは真の努力ではないかもしれない。「当たり前のことを普通にやる人」には勝てない。
これ現実。
当たり前のなかに「ひらめき」があるのも真実。

情報過多を乗り切るぞコノヤロー

「この10年で消費可能情報量は33倍になったのに対して、選択可能情報量は530倍になった」 -総務省の平成18年度情報流通センサス-

 

ググれば何でも回答っぽいものが出る時代。
欲しくもない情報が勝手にメールで届く時代。
記事っぽく広告がコンテンツに入り込む時代。

ビジネス1つとってもみても色々な情報が読み取れる。
情報はデータ。データの集まりにすぎない。捉え方が重要だから「どこから物事を見るか?」によって違ってくる。
情報や知識を未だに大切に思っている人もいるが、これだけ誰でも情報発信できる時代では情報や知識そのものには価値はまったくない。
まったく無いというか・・・確実に価値は低下し続けている。

→情報と知識は「誰かが 過去に まとめた もの。」


だからこそ疑う余地があるし、他人のものを信じてはいけない。
知識をさらに磨いて「知恵」にする。知恵まで辿り着ければ楽しい人生が待っていると思う。情報や知識は「盗まれる加工される」が知恵は間違いなく自分のもの。

 

・やりたいこと
・やるべき理由、意義
・やれること

この3つがあるなら、それはGO!!!!ってことだな。

知識が豊富な人は山ほどいるし、どんな業界にもいるよね。カッコいいよね、横文字使ったり、事例や過去の栄光話とか聞かしてくれるしね。
でも「知識」が豊富だと「学ぶ心」を失っちゃうんだよね。

専門家と言われる人は極めて狭い領域でしか生きて来なかったし、これからもその領域を守りつつその領域で生きて行くしか無い。
それで死ぬまで生き抜けるのか?って聞かれればちょっと疑問なんでよねー。

情報< 知識 <経験 <知恵

 

最低限の知識は役立ちはするが、経験には勝てない。
経験を経ることで経験を通じて「知恵」は出来る。
いくら知識を詰め込んでも「知恵」だけは行動、経験しないと身に付かない。
だからこそ価値がある。

そう信じて疑わない。

 

頭に入れた知識を心で使えるようになったとき、それは知恵と呼ばれるようになるのかもしれない。

     

      この資格で食おう!出世しよう!

      食えないけどな。出世、出来ないけどな。


      資格は取り方までは丁寧に教えてくれる。この資格をとれば「こんな事に役立つよ」「こんな仕事に使えるよ」「転職にも有利だよ」・・・と皆が言う。
      僕も実際「資格を取ること」こそが「社会を正しく生き抜くコツ」だと思っていた。
      資格という武器を手に入れる事ができれば「戦える世界」がそこにあると。

      資格天国日本では「資格」を武器と勘違いしている人が多い。
      僕は高卒だから社会に出た時に「資格」をたくさん取ろうと頑張った。入社1年目でもぶっちぎりの点数で複数の資格試験にも受かったし(まあ同期が残念なレベルだけだっただけ)高校時代もいろいろな資格をとった。

      しかし。卒業後入った地元の金融機関で上司に言われた一言で気付いた。
      「頑張って資格を取っても大きな意味は無い」と。18歳の秋だった。
      その上司は10代の僕から見ても明らかに優秀というか、頭がキレる大人だった。
      彼は10代の僕にサラリとこう言った。衝撃的な一言だった。

      「資格は取って損はないだろう。資格は鎧だからな。自分の身を守るための。」

      武器ではなく「鎧」 資格は武器だと思っていた僕は衝撃を受けた。そーかー・・・鎧なんだ。”攻めるために使うものでなく守るために使うもの”なんだ!と。
      サラリーマンが出世するには3つの要素がある。どの会社でも同じ。


      ①わかること ②できること ③教えられること


      この3つの「こと」をマスター出来なければ大人は人の上には立てない。
      この3つの階段を超えること。


      ②までが完璧でも残念だけど組織の中では生きられない。そーゆー人は組織を飛び出して生きるしか無い。職人として生きるしかない。

      「わかる」とは「理解の階段」を登ることだ。わかるという状態を指す。
      いろいろ聞きながら教わりながらOJTとかを通じ「わかる」ようになる。自分の中で「わかった」と思える段階。正確には「分かった気」であるが。

      次に登るのが「習得」の階段
      つまり「できる」という状態を指す。繰り返し、反復練習によって「カラダ」に覚え込ませる。無意識でも手が動く状態まで到達するかどうか?ここで多くの人は脱落する。たぶんここまでくれば大抵のことは捌ける。優秀と言われる人材になれる。

      そして最後の「習熟」の階段
      「人に教えられることができる」という状態を指す。
      で、ここが超難関。
      誰かに教えるということは「相手が何が分からないか?」を理解していないと「教えること」は出来ないからだ。結局自分自身が磨かれるというか勉強になるなーってのがここの階段。「誰かに教える機会」を与えられた時に次の階段が出てくるんだと思う。
      オリジナリティとか、個性とかってのはこの先のことであって、最初から個性とか主張するヤツにロクなやつはいない。

       

      「わかる」→「出来る」→「教えられる」【状態】

        ||     ||      ||

      「理解」 →「習得」 →「習熟」【階段】

       

       ・自分はどの「階段」にいるか?

      ・状態と階段に整合性はあるか?

       

      例えば「出来る」と言いながら実は「理解したという状態」の人が多い。本当の意味での「出来る」ではなく実態は「わかる」の状態に過ぎない。だから話が上手く進まない。
      自分で認識している状態と実際の状態が合致していないからだ。

      人に何かを教える時に「わかったかな?」と聞く人が多い。しかし仕事では「出来るかな?」と聞いた方がスムーズだ。なぜなら「わかる・わかった」の領域は無茶苦茶広く、ある1点でも「分かった気」になるし、「なんとなく分かった」の状態で先に進んでも苦労が待っているからだ。

       

      つまり・・・

      状態の段階と理解の段階がズレているとお話にならないということ。
      「出来る」といいながら実は理解が出来ていないかったり・・・・的なことは良くあるお話だし。
      「STAP細胞はありまーすッ!」といった女子は「わたし、出来ます」と思っていたが実は「理解の階段」を登ったに過ぎず「習得の階段」を超えるにままだまだだったということかもしれない。超えたつもりにはなっていただけで。

       

      資格ってのは「鎧」 知識を獲得出来た証拠に過ぎず、それは武器にはならない。


      武器となるのは②の階段を超えなければいけない。
      資格合格という結果は「理解はしています」という証拠に過ぎない。それは丸腰で戦っているライバルよりは少しは有利で優勢だろう。
      でも差がつくのは間違いなく②の階段。②のステージ。

      さらに重要なのが
      【資格」をとっても「使いかた」までは誰も教えてくれないという事】

      取り方は新設丁寧に教えてくれるところは山ほどある。でも「使い方」は自分で考えるしか無い。同じ資格でも使い方・活かし方はバリエーションが豊富、無数ある。


      最初は「鎧」だった「資格」というものが、鎧から武器になりうるとすれば[使い方]を知った時だ。

      使い方を知るには「考える」しかない。


      結局は「考える」という行為って一番大切で、機械やコンピューターが苦手なことなので、ここに長けている大人はどこでも「求められ、活躍できる」

      社会ってそんなもんだ。難しくない。
      考えない大人は搾取される。だって考えないんだからしょうがない。
      考えることを放棄するということは「あなた以外の他の誰か」が考えているわけであり、あなたは”仕事っぽい作業”しかしていないのだから。


      どんな時代でも己で考える人を歓迎する。

       


      知らないけど。

      境界線がない世界は美しい

      インターネットに出会って10年。集客やセミナーや色々なことでたくさんの人に出会う機会に恵まれている。その中でここ3年くらいで強く思う事は「境界線の存在」

      それこそコンサルティング的なことや店舗への集客支援やあれこれしていると「売れる店」「売れない店」がハッキリ分かってくる。
      空気というか、ハリというかツヤというか。1歩入ると感じるものがあるのだ。

       

      ここ2、3年の講義やらプログラムで必ず入れいるフレーズがある。この考えがコレからの時代には必要だし間違いなく重要になってくると信じて疑わない。
      それは「境界線」 
      境界線とは棲み分けの「目印」「境目」

      買い手と売り手。プロと素人。上と下。右と左。既婚と未婚。高額と低額・・・・ここまではAでここまではBというのを「キッチリ分ける」ために存在するのが「境界線」
      いわばテリトリーというか領土というか「自分の領域」みたいないもの。
      旧型の商売ではこの「境界線」をハッキリさせることがスタンダードであった。

      境界線を作っている商売は「上手くいきません」 

      実際にそういった”見えない境界線”を作っているケースは多く、それらを感じるお店はモノが売れない。売ろうとしているから売れないわけだ。
      売り手と買い手という具合に「私たちは売るのが仕事、売る立場である」と考えているからお客さんは「買う立場」に見え、買わせようとしてしまう。
      販売を生業としているなら営業マン、販売員がノルマ、目標というテリトリーに立っている限り、来店者はすべて「数字」にしか見えなくなる。
      「コイツ、買うのか?買わないのか?」を一番最初に考えるようになる。つまり「お客を値踏み」するようになる。見えない境界線を挟み、対峙し合う図式だ。

      境界線を挟み「向かい合っている状態」
      これは致命的。上手く行くハズない。


      「境界線を超える」なんてカッコいい言葉があるけど、商売をしている以上は「境界線」は引くべきではない。見えない境界線は「お客には見えている」

      そしてその見えない「境界線」に近づこうとしないから(売られるという危機感から)、売れない。売れないようにしているから何をしても売れない。


      境界線を無くす。感じさせない。

       
      僕がよく行くお店のスタッフは境界線がない。特には手を引っ張りグイグイ引っ張ってくれるし、特にはこっちに近づいて色々聞いてくれたり(喩えです)
      時には「今シーズンは浜本さんの好きなカタチが少ないので、来シーズンまで待ってもいいかもよー」なんて言う。相談とか世間話で終わる事も多々ある。

      そこには「売り手買い手」という境界線がない。
      だから僕はそのお店のそのスタッフから買う。

      ネットでもチラシでも「お客様の声」は効果がある。
      効果があるとは、言い換えれば「心強い」ってことである。
      なぜ心強いのか? それは(お客様の声を書いた顧客は)ユーザーによって仲間だからだ。同士。仲間。味方。だから境界線はそこには存在しない。
      にも関わらず売る側に立つと既存客を一方では味方(お客様の声)として利用し、一方では敵(来店者)として見る。敵として見ているつもりは無いのだろうけど、境界線がある限りそれは対峙するわけだから敵だ。
      ここに矛盾が生じてるわけだから、交わるのは中々むずかしい。つまり売れない。お互いの思惑は交わらない(売りたい・買いたい)

       

      ・境界線を引いていないか?
      ・対立していないか?

       

      綺麗ごとと思う人もいるかもしれないが、これが重要。
      売れている店やビジネスは「境界線」がない。
      一流ホテルや一流の接客、もてなしをするサービスもすべて「美しい」
      その理由の一つに「境界線がない」ということが絶対にある。

       

      仕事でも恋愛でも生活でも・・・
      「何か違和感を感じる時、そこには境界線がある」
      境目を感じさせない。区分けしない。これがサービスってこと。

      答え探しは子供のすること。

      何もないところからインスピレーションは湧いてきません
      そもそも問いを見つけられた人こそが答えを見つけられるのです

       

      僕がセミナー最後によく使うスライドに書かれているフレーズ。
      2010年、2011年あたりのセミナーの大半ではこの言葉を最後の〆に使った。
      リサ・ランドールの名言。


      多くの人は「答え」を聞きたがる。
      分かる。僕もそうだったし「それ(答え)が分かれば今のビジネスは加速出来る」という思いがあるからだ。ご託はいいから「答え」を教えろ!
      でも実はそれ(答えが分かる)は「囚われ」であり、その答えは自分で見つけるしか無い。
      外部環境は外部要因は毎日変わっている、動いている。 ということは同じビジネス形態で大成功した企業の手法や戦略をなぞっても、それは過去の「あるタイミングでの事例」なわけであるから、真似ても同じ結果は保証されない。そもそも論として僕は「タイミング」というものが大きく寄与していると思う。成功には。
      運とかタイミング。言葉に出すと萎えるので成功者は書籍やセミナーでも「運ですよ、タイミングが重要ですよ」的なことは言わない。上手く行ったことの理由を後付けで考える傾向が人間にはあるのも事実だ。常に語る事の出来るのは「勝者」なわけだから(一時的な勝者含む)勝者は好き勝手に語る事ができる。ここが厄介。だから成功本は山ほどあっても現実の世界では、その領域(成功)からかけ離れた場所でもがき苦しむ人がいるわけだし、そっちの数の方が圧倒的に多いわけだ。

       

      何が言いたいかというと「HELPとSupport」の違い。ヘルプを書籍やセミナーやコンサルに依存しても「答えっぽいもの」は提示明示がしてくれるが、あくまでそれはサポートだ。溺れているなら泳げるようになるしかないわけだ。クロールの方法を習う事じゃなく。

       

      外部はあくまで手助けはしてくれる。
      手助けしてくれる人を探すのは良いが、サクサク何でも解決出来る人なんて居ない。そこで誰かに依存すると事態はさらにマズい方向に進むだろう。ますます暗闇に入っていき最終的には詐欺られる可能性の方が高い。この世の中には

      「私はこの業界のこと何でもしっていますよ」
      「その解決策あります。実績も多数あります」
      ・・・と言う人は多いわけだが本当だろうか?


      「答えでなく、問いを見つける事」

      これが出来た人だけが「答え」を見つけることが出来る。


      その答えを見つける為にコンサルタントとか、異業種の仲間や先輩はいるのだ。
      サポートは他人の力を借りて解決策に近づく薬。ヘルプは他人じゃなく自分に向ける言葉。ヘルプミー!と思ったときは「問い」を見つける事。


      大人は自分で解決策を見つけられる。
      問いを見つけることが出来れば。

      失敗に価値がある理由。

      再び起き上がれないレベルの失敗でなければ、それは失敗ではない。
      小さな成功体験も大切だが、同時に「失敗」はさらに重要。

       

      「失敗は大切だ、失敗を避けてはいけない」
      色々な人が言うが、理由は何か?

      理論的に説明できる人はあまりいない。
      なぜだろうか?


      失敗の定義にもよるが個人的には「失敗は成功の母」だと思う。
      特にこんな時代だから「再チャレンジできるレベルの失敗」を恐れてはいけない。
      1勝9敗でも勝てるようにチャレンジする。
      投資と同じで「負けは小さく」が長くその市場で戦うコツだ。


      成功本は世の中にあふれている。


      何かを学ぼうとググれば成功事例やら事例セミナーやら・・・・
      沸いて出てくる。
      そう。世の中に「成功体験」「成功事例」は十分に溢れている。
      ただしソレらは完全に過去のもの。
      「事例」という形になった時点で言葉は悪いが「過去のもの」
      事例セミナーはシンプルに言えば「過去の事例発表会」に過ぎない。

      成功は大切。
      小さい成功を繰り返し、同時に失敗も繰り返す。

      成功はみんな「語りたい」のだ。
      だから全国各地全世界で「成功は語られる」のだ。

       

      それに対し・・・


      「失敗」は誰もが隠したい。


      失敗は「隠されている」というコトだ。

       

       


      だからこそ価値がある。
      動いた人間しか得られない情報だ。
      そして、表に出ない出さない機密情報でもある。


      わざわざ失敗事例を話すセミナーをしても誰も集まらない。
      成功事例を知ることこそが「成功の近道」と大衆は考えるからだ。

      違う。

       

      表に出ない出ようとしない「失敗」こそが「成功」の近道だ。

       

      どんな会社でも商品開発やサービスの提供段階で失敗をしてる。
      その多くが「誰かの事例」を真似たにも関わらず失敗している。


      失敗の経験はできるだけ隠したいと思う。

      恥ずかしい。


      でも、それを前向きに捉えることができれば、
      新たな成長ステップを踏むための礎になる。

       

      情報はもともと「隠したいもの」

      つまり他者がその情報を入手することは困難。

      ここが一番「成功事例」と異なること。
      事例は「タダ」でも手に入る。

       

      だからこそ・・・

      たくさんの失敗情報を収集、蓄積することには非常に価値がある。

      リスク負える範囲内の失敗はOK。
      負えないリスクを好むのはただの馬鹿。ただそれだけだ。

       

       

      「負けながら勝つこと」

      「用意周到な楽天家」

       

      僕はこの2つの言葉が好きだ。この2つが出来ている人に勝つのは至難の技。